私たちが子どもの頃には、浮世絵、特に広重や北斎の風景画は、身近に存在していました。たとえば、永谷園のお茶づけ海苔のパッケージには、広重の保永堂版「東海道五十三次カード」が入っていました。このカードを20枚集めて、永谷園に郵送すれば、美しい化粧箱入りの55枚の1セットがもらえたのです。また、第一燐寸工業は、「たばこマッチ東海道五十三次」と銘打って、広重の東海道五十三次の絵をマッチ箱のラベルにしていました。しかし、西洋文化の浸透や生活様式の西洋化によって、浮世絵や歌舞伎など、江戸時代から継承してきた文化は、私たちの日常生活で影が薄くなっています。
私が中学3年の時、美術の最後の授業で、有名な画家の名前と、その代表作を教えてもらいました。そのほとんどすべてが西洋の画家でしたので、日本に名画があるとは思いませんでした。高校受験の時に、絵の構図に関する問題の回答の一つに、北斎の富嶽36景中の厩橋の絵(今回展示しています)が出ていました。それは、遠近法を用いた絵の正解として出ていたのであり、私は、それが世界に誇る名画の一つであるとは思いませんでした。
日比谷高校では、選択科目として、音楽か美術を履修することになっていました。私が履修した美術の授業でも、日本の美術を教えてもらえませんでした。しかし、1年で同級生だった河野元昭君は、東京大学に入学して日本美術史の専門家になったのです。当時の日比谷高校には、将来のエリート教育の結果、豊かな教養的雰囲気があったのです。
私は、生後6か月に結核性リンパ腺に罹患したために虚弱体質になり、大学受験勉強から脱落しました。しかし、幸いにも、中央大学法学部に入学することができました。1964年10月に東京オリンピックが催されるのに先立って、リッカーミシンは、創業者の平木信二氏の収集品を公開するために、銀座の本社ビルで浮世絵展を開催しました。大学2年の私は、その展示会を見に行き、江戸時代にこのような日本独自の美の世界が作られていたことに、衝撃を受けました。そして、なぜ学校での美術の授業では、西洋の美術だけを教えているのか、疑問に思いました。この時、一番魅力を感じたのは、春信の美人画でしたが、将来、春信や歌麿などの美人画の収集家になるとは、思ってもいませんでした。
リッカーミシンは、1972年に日本で最初の常設浮世絵美術館を銀座の本社ビルに開設しました。浮世絵に魅力を感じた私は、ときどき、その美術館を訪れました。また、デパートの催し物として、浮世絵展がしばしば開かれるようになったので、見に行っていました。
1993年にリッカーミシンが倒産しました。銀座のビルが売却されて閉館になったとき、美術館を引き継いだのは、平木氏の友人の水島廣雄先生でした(私は、中央大学で水島先生の「信託法」授業を履修していたのです)。当時、水島先生は、平木浮世絵財団の理事長であり、また、そごうデパートの社長を務めていました。水島先生は、社内で絶大な権限を持っていたので、横浜そごうデパートの中に、平木美術館を移転させたのです。私は、川崎に住んでいたので、ときどき、横浜まで展示を見に行っていました。その後、國學院大學の卒業生の紹介で、中央大学の先輩の佐藤光信館長と知り合ったので、平木美術館のことをいろいろと聞かせてもらうことができました。
その後、そごうデパートは倒産し、水島先生はスキャンダルに巻き込まれました。そこで、平木美術館は、横浜のそごうデパートから撤去せざるを得なかったのです。平木美術館の収蔵品は、佐藤館長たちが散逸するのを防いでいました。2006年10月には、江東区豊洲に展示場所を見出して、美術館活動を開始できました。しかし、来場者の入館料だけでは経営できず、2013年3月には、その展示場所を閉鎖せざるを得なかったのです。日本人の日本美術の理解の貧困が、平木美術館の流転および閉鎖という悲劇を招いたのです。
私は、川崎で浮世絵の画商をしていた高橋篤司氏と知り合いました。1973年頃の麻布工芸館は、貸しギャラリーとして運営されていたので、高橋氏は、そこで浮世絵や掛け軸の展示即売会を開いたのです。高橋氏の案内でそこを訪れましたが、広重の落款のある風景の浮世絵に安値の札がついているのに、驚かされました。私たちは、広重の風景画といえば、名作の保永堂版の東海道五十三次しかないと思いがちです。しかし、実際には、広重は、版元の注文を受けて、たくさんの風景画を浮世絵制作のために描いていたのです。有料の展示会で見るのは、名品といわれるほんの一部にすぎないことを初めて知ったのです。
その展示即売会で気に入ったのは、河鍋暁斎の掛け軸「酔狂図」でした。河鍋暁斎という絵師が、どのような人であるかは知りませんでした。しかし、展示即売会で最高の値段がついていたその掛け軸を、購入したのです。高橋氏は、「数日後に楢崎宗重先生が見に来るので、もし楢崎先生が文化財クラスだと鑑定したら売らない」という条件を提示しました。幸いにして、楢崎先生は、その掛け軸の絵を評価しましたが、文化財クラスといわなかったので、私が購入できたのです。後日、斉藤文夫氏(2001年に設立された川崎砂子の里資料館館長)もこの絵の購入を希望されていたと、高橋氏から聞かされました。
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